エミール・マールと巡るロマネスク美術 - その6 ロマネスクにおける修正と創造2

Poitiers  Notre -Dame la Grande

Poitiers Notre -Dame la Grande

典礼や典礼劇からの影響

10世紀末頃から、教会の典礼の中で復活劇を初めとしてさまざまな典礼劇が演じられるようになりました。
マールは、ロマネスクの作家たちはこれらの典礼や典礼劇からも着想を得て、旧来の図像に新たな修正と創造を加えていったとします。

本書、第4章「図像の多様化ー典礼と典礼劇」では、典礼や典礼劇の影響によるオリエント芸術の修正と創造の具体例が示されます。

神殿への奉献

「神殿への奉献」の図像はオリエント由来の2つの型に忠実に従っていた。
聖母が幼子をシメオンに差し出し、シメオンがヴェールで覆った両手を差し伸べている型と、シメオンが幼子を受け取って抱いている型の2つである。
いずれも白鳩を持つヨセフが聖母の後ろに立ち、シメオンの後ろに預言者アンナが控えるとの構図がとられる。

しかし、12世紀中頃のシャルトルのステンドグラスにおいては、幼子を差し出す聖母の後ろに2人の侍女が火を灯した大蝋燭を持って立つという構図が現れる。
これはオリエント由来の図像には全く見られないもので、「主の奉献」の祝日に行われた蝋燭祝別行列の儀式を取り入れたものである。

Chartres「神殿への奉献」

Chartres「神殿への奉献」

キリストの洗礼

ヨハネが川の中に浸されたキリストに洗礼を授けるとの構図(浸水礼)が一貫してとられてきたが、12世紀には、川の中に立つキリストの頭にヨハネが甕の水を注いで洗礼を授けるとの構図(浸水礼と注水礼の複合)が見られるようになる。
初期の洗礼では洗礼室内の水槽に全身を浸す浸水礼が行われていたが、12世紀から水槽に代わって洗礼盤が使われるようになり、頭に水を注ぐ注水礼が行われるようになった。
洗礼方式の変化が「キリストの洗礼」の図像に影響を及ぼしたものである。

復活

「復活」の場面は、天使が古代の墓所を想起させる2段式墓所の前に坐り、聖女たちに声をかけるという定型的な構図で表現されてきた(モザ、ブリウド、サン・ネクテールの柱頭彫刻)。

しかし、12世紀に全く新しい表現が現れる。
埋葬場所が墓所から石棺に変わり、天使が坐っているのは墓所の扉の前ではなく石棺のそばとなる。
このことは、当時の人々が福音書の文章にこだわらずに、キリストは石棺の中に埋葬されたと考えていたことを示すものである。
キリストを象徴する十字架が石棺の形をした聖遺物箱に納められるようになり、復活祭の典礼劇でキリストの埋葬場所が石棺とされるようになったことに対応するものである。

また、聖女が石棺の前で屍衣を手に取って見せたり、天使が石棺の蓋を持ち上げ中が空になっていることを示したりする場面が現れ(サン・ポンの柱頭彫刻、サン・ジルの右扉口)、ついにはキリストが石棺の中に立ち上がる場面までが見られるようになる(ラ・ドラード修道院回廊の柱頭。この作品までに墓から出るキリストが描かれたことはなかった)。

このように、視覚的に表現することのなかった復活の神秘が写実的に表現されるようになったのは、典礼劇の影響以外には考えられない(12世紀頃から復活祭の典礼劇に聖女たちと使徒に加えてキリスト自身が登場するようになる)。

また、聖女たちが墓を訪れる前に香料商人から香料を買うという場面が加えられたこと(サン・ジルの右扉口。アルルのサン・トロフィームの回廊浮彫、下段に坐る2人が香料商人である)。

「エマオの巡礼」におけるキリストと巡礼者の衣装が、杖、パン袋、縁なし帽を特徴とするとサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼者のように表現されていること(シロスの回廊浮彫、ヴェズレーの左扉口、シャルトルのステンドグラス、ラ・ドラード修道院回廊の柱頭。この衣装は典礼劇で用いられるようになったもので、ロマネスク以前には見いだせない)。

これらの新しい表現は、復活祭に演じられた典礼劇の影響抜きには説明できない。

マールは、「「香料の購入」、「墓における聖女たち」、「エマオの巡礼」、そして最後に「不信の聖トマス」を次つぎに描くサン・トロフィーム回廊の石柱群は、われわれには復活祭の際に教会で演じられた典礼劇の図像化のようにおもえてくるのである」と記しています。

誕生

降誕祭の典礼劇では「羊飼へのお告げ」「マギの礼拝」「エジプトへの逃避」等が題材となります。

マールは、12世紀後半に「マギの礼拝」の構図に大きな変化が見られるようになるが、その理由には典礼劇の影響があるとしています。

従前、聖母と膝の上に坐る幼子に向かって一列に並んで同じ姿で進んでいた3人のマギたちが、それぞれ演劇的な身振りを示すようになる。
先頭のマギは聖母の前に跪き、二番目のマギは星を指差しながら次のマギの方を振り返り、三番目のマギは片手を挙げて賛嘆の気持ちを表わしている(アルルのサン・トロフィームの扉口と回廊柱頭、サン・ジルの左扉口)。

Arles 「マギの礼拝」

Arles 「マギの礼拝」

また、降誕祭ではキリストが神の子であることを旧約聖書の預言者たちに証言させる「預言者劇」も演じられた。
ポアティエのノートルダム・ラ・グランドの正面には、モーゼ、エレミア、ダニエル等の預言者が証言している姿が刻まれており、さらにアダムとイヴの罪を描く浮彫彫刻が並んでいる。
これは「預言者劇」と「アダム劇」を題材としたものである。

賢い乙女と愚かな乙女

12世紀にフランス南西部のリムーザン、ポアトゥー、サントンジュ地方にマタイ福音書の「10人の乙女のたとえ」に由来する「賢い乙女と愚かな乙女」の図像が広まるとともに、賢い乙女が持っていた松明がランプに変わり、愚かな乙女は油のないランプを逆さに持つという構図で表現されるようになった。

乙女たちのこのような所作は、当時フランス南西部で演じられていた「賢い乙女と愚かな乙女」の典礼劇で行われていたもので、マールはそこからこの構図が生まれたとしています(最初期の作品はサン・テティエンヌ回廊の柱頭彫刻に見られる)。

ロマネスクで誕生した図像

以上のように、ロマネスクの作家たちは、典礼や典礼劇から新たな構成や身振りを取り入れることにより、オリエント由来の図像を修正し、またこれらと明確に区別される新たな創造を行ないました。
そして、これにとどまらず、12世紀には主にフランスの聖人を主体とするさまざまな「聖人像」が姿を現し始めます。

マールは本書第6章「図像の多様化と聖人たち」で、「彼らの生涯を描くにあたって、フランスの芸術家たちは見習うべき手本を持っていなかった。彼らは新たに創造しなければならなかった。こうして、聖人像を刻むことによってもまた、フランスの芸術はオリエントの影響から次第に独自な歩みを歩むようになっていったのである」と記し、聖人像は伝記や伝説をもとにロマネスクの想像力が創造した全く独自のものであることを強調します。

しかし、これらの聖人像の多くは時の流れで朽ち果て、革命によって破壊されて、残存するものは極めて少なくなってしまったといいます。

以下はマールの取り上げた聖人像の中からいくつかを紹介するにとどめ、詳細は本書を参照ください。

サン・タヴァンタンの側柱柱頭

  聖タヴァンタンの誕生と殉教

サン・ベルトラン・ド・コマンジュのタンパン

  「マギの礼拝」の右端に立つ聖ベルトラン

St.Bertrand de Comminges

St.Bertrand de Comminges

ヴァルカブレールの側柱柱頭  

  聖フストと聖パストールの殉教

コンクのタンパン 

  「最後の審判」で囚人のために祈る聖女フォア

Conques

Conques

サン・ネクテール  

  聖ネクテールの生涯の柱頭彫刻とオーヴェルニュ地方の初期布教者である聖ボディームの半身像

サン・ティレールの柱頭彫刻  

  聖イレールの死

スミュール・アン・ブリオネの楣石  

  聖イレールのアリウス派との戦い

Semur en Brionnais

モザの楣石 

   聖母子の左でひれ伏した修道院長を紹介する聖オストルモアーヌ

Mozac

Mozac

ヴェズレーの柱頭彫刻  

  聖マルタンの松の木の伝説、聖ベネディクトゥスの誘惑、聖女エウゲニアの伝説

トゥールーズ、サン・テティエンヌの柱頭彫刻  

  エジプトの聖女マリアの伝説